衒学的であることについて

前書き

ゲームとは無関係なんですけど、長くなりそうなのでここに書き殴っておきます。

最近になって物知りですね、と言って頂けることがたまにあります。言ってくださる方は良い意味で言っている(と思いたい)のでありがたいことなんですが、良い意味で受け取っちゃっていいのかな、とも思うのです。

いわゆるドーナッツです

私が話すことは、基本的には情報の端の端、すみっこのことばっかりです。いわゆる雑学であったり豆知識的なことを、本当かどうか確かめずに話している。物事に詳しい人からすれば、こいつ何言うてんねん大事なところが空っぽやないか、となるわけです。

みんなが想像するドーナッツって直径8センチメートルくらいで真ん中に穴っぽこが空いてますよね。じゃあ同じ直径と厚みのカレーパンと比較したらどっちが容積が多いか、という話です。当然カレーパンの多い。でも大きさはどっちも直径8センチメートル。同じような大きさに見えてしまう。

これと同じことで、端のことを知ってると中身が空っぽでも大きく見えてしまう、ということです。

衒学的であることは恥ずかしい

物事を知っているように見せることを衒学と言いますが、それには良い意味ではなく「知識をひけらかす、傲慢な態度」というようなネガティブな意味合いが強いです。それくらい、物事を知ってるように見られているというのは、ちょっと恥ずかしいな、という思いが個人的にはあります。

かのシェイクスピアの作品にはこんな台詞が出てきます。

Those wits, that they think think they have thee, do very oft prove fools;
And I, that am sure I lack thee, mat pass for a wise man: what says Quinapalus?
“Better a witty fool, than a foolish wit.”

This fellow is wise enough to play the fool;
And to do that well craves a kind of wit:
He must observe their mood on whom he jests,
The quality of persons, and the time,
And, like the haggard, check at every feather
That comes before his eye. This is a practise
As full of labour as a wise man's art
For folly that he wisely shows is fit;
But wise men, folly-fall'n, quite taint their wit.

 

William ShakespeareTwelfth Night

自分は賢者だと思っている者こそが阿呆であり、道化師は自らを道化に観せられるに足るほど賢い、ということです。

どうあれば幸福なのか

「あの人は物知りだよね」と思われるより「あの人は阿呆なところもあるけれどそこが愛せるよね」と思われる人の方が賢者であり、人生の幸福感が高いでしょう。フランスの哲学者アランも「友情にはすばらしい喜びがある」と言っていますしね。

褒められることはもちろん嬉しいことですし、褒める意図で言ってくださってる方には感謝なのですが、物知りですねと言われてるうちは本質的には愚者なのだろうなと思います。

豊かな賢者になりたいものです。